御神訓 信心の心得 「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」
信心と言うと神様やら仏様を拝むことをまあ信心と言っておったんですけれども、此処では信心の道ということを、真心の道と書いてありますね。
真心というのは真心と書いてある。だから違いますよね。神様を拝んだり、仏様を拝んだりする道を末の末まで教え伝えるのでなくて、いわゆる、真心の道を迷わず失わず末の末まず教え伝えよとあるのです。
なら、真心の道とは、お道ではどういうふうに頂いたらよいだろうかというと、実意の道だと思うですね。お道でいう真心とは、実意、いわゆる実意丁寧神信心というその実意です。実意の道をまず自分が頂いて、しかもそれを迷わず、失わず末の末までも教えて行けというのです。
真心の道を迷わず、失わずというのは、只、拝むこと、俺のところは金光様の信者だから、金光様を拝むことを忘れるなよというようなものではないわけです。
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私は今日、御祈念中にこんな歌の文句がありました、ね、昔。" 私とあなたは川端柳、水の流れを見て暮らす " 私とあなたは川端柳、水の流れを見て暮らすというなら信心の道もも、真の道も、いうなら実意の道も私共は聞いたり見たりしてきておる。そこに金光大神の道、大きないうならば、川の流れ、いうなら、おかげの中に浸って行けれる道、そういう道を知ってはおるけれども、それを聞いただけ見ておるだけだと思うんです。
今日はこの御神訓を頂いて大体どういう事かと思ったんですけれども、そう思うです。お互いどうでしょうか。本当に私とあなたは川端柳、水の流れをいうなら、見てて暮らしておるだけである。その中に浸っていない。その水とともに流れ流れて流れきって行こうと、末は大海に入って行くようなです、そういう信心というものを身につけるというか、それを体得するというかという精進をしていないということです。 只、お取次を頂いて、いうなら御利益を頂いておるというだけ、それだけで金光様の信心というものじゃない。私は金光様の信心はどこまでもです、やはりお礼の道であり御詫びの道であり、お願いの道だと思うですね。
いよいよ今日は、四十八年も今日一日でお終い、いわゆる、大晦日ということでございます。いよいよ明日は四十九年という新しい年を迎えるという前日である。
来年は、来年はというその願いとか希望というものを、いよいよすっきりとしたものにするためにはです、やはり今年一年の今日の締めくくりが大事だと思うんです。 そこで私は、ここ、二、三日考えさして頂くことは、一年間に受けてきたおかげの有難さもさることながらです、私共がもう知らず知らずに犯してきておるお粗末御無礼ということの、もうお詫びばかりをしておりますという感じがします。
私の御祈念の内容が、その事を御詫びさして頂いとりますともう、もう本当に限りがない。私はそのことに気付かせ頂いたのは、二、三日前の夜に、此処で御祈念をさしてもろうとるときに、頂いたんですけれども、みんなが黒足袋をはいておる。
白い足袋をはきますともう汚れがすぐ目立ちます。けれども黒い足袋をはいているから汚れが汚れと気がついてない。自分でもそれはこんなことではいけない、こんなことではお粗末御無礼だと知っての御無礼もあろうけれどもです、自分が黒足袋をはいとるもんですから、足袋が汚れておろうが、汚くなっておろうが自分で気がついてない。そういうお粗末御無礼を持ちながら来年に、例えば来年はどうぞどうぞというても私は、すっきりとした来年には私はならないと思う。
だから、なら天地金乃神様はです、詫びれば許してやりたいのが親心とおっしゃるのじゃから、そこんところ気つがせて頂いて、私はお詫びをして、改まってお詫びをさして頂くということがです、私は今年の最後の締めくくりになるのじゃないだろうか。今晩は除夜祭、昔は大祓式といっておった。
一年中のいうならば、罪、穢れを払うて頂く。そして新たな年を迎えようという、これは神道からきた一つのしきたりであります。
けどやはりお道の信心に於いても、それが私は必要だと思うです。罪、穢れといったようなものはないでしょう、金光教、お道の信心ではありません。けど御粗末、御無礼というそのこと、自分が汚れに汚れ果てておるならば、それを一つ清まって、すっきり垢をおとした。でなからねば新たな如何にめでたいの有難いのというても、これはすっきりとした有難い、めでたいになってこないと思うんです。
そういう意味で今晩の私は除夜祭は大変なお祭りだと思うです。一家中の者が改まって、そしてお詫びに徹しさしてもろうて、そういう自分で気がつかん御粗末御無礼をです、にもかかわらず、かくまでのおかげを本年一年の中に頂いてきたという事をです、心いくばかりに御礼申さして頂いて、いよいよ四十九年の新春ということにならなければならないと思うです。
私は、これはまあ、私を含めてですけれども、そういう有難い大きな川の流れという、なら、信心の道、実意の道、そういう道を教えて頂きながら、それに合流していないという私達、只、私とあなたは川端柳である。
只、その川の流れを、水の流れを見て暮らしておるだけけではつまらんのです。
御利益は受けましょう。おかげは受けましょうけど、そういうことではです、末の末まで教える事は出来ません。
一つそこんところを迷わず本気でそこんところの信心を身につけて行くことのね、精進をなさらなければならない。それには私は、まずは、お詫びの道であり、お礼の道であり、願いの道であるというふうに申しましたが、その問題は、願いの道ということなんですけれども、いろんな難儀、自分の問題をあれもお願いします、これもお願いしますという私は願いではなくて、もう一歩前進した神様の心を心としての願いでなければならないと、願いの道とはそういう道なんです。
成程、教祖様は人間の難儀いうならば、それはもう、どういう事でもよいと、それこそ牛馬のことに至るまでとおっしゃる。どんなことでも願うてよいぞと。痛ければ痛い痒ければ痒いとよう願うがよい。
それは牛馬のことまて願えとおっしゃる。それは只願うんじゃない実意をもって願えなんです、いわゆる真心いわゆる真心と真心の願いじゃなけりゃいけない。
真心とは本当な心ということである。いうなら、神の心ということである。そういう心で願わしてもらう。そこに例えば合楽で言われとります、五つの願いがはっきりしてくるわけです。どうぞ体の丈夫のことをお願いしますと、体の丈夫を願えとおっしゃる。体の丈夫は、まずは何というても体の丈夫、御神徳の受けものは体の丈夫と言われております。
だからまずは体の丈夫です。次に家庭に不和の無きが元とおっしゃるのですから、これがおかげを頂く元なんですから、私というものがなかったらです、どういう事を頂いても水の泡と同じこととおっしゃる。
神様は、家庭円満の元を頂いてなかったら、どういうおかげを頂いても、それはもう水の泡と同じことだと。水の泡と同じことなんだという程しに家庭円満とは大事な事なんです。これが二つ目のお願い、三つがいわゆる子孫繁昌願わんものはありますまい。その子孫繁昌家繁昌がです、この信心の道を真の道をです、実意の道をです、自分自身が迷わず失わず、自分自身が頂かずして、それを子に伝える事は出来ません いわゆる信心の継承なのです。只、金光様に参りよればおかげ頂かれるぞ、御利益を頂かれるぞということでは続きません。
どうぞ神様真実の御用が出来ますように、仕事、働き、奉るという内容の御用がつとまりますように、儲けさえすればよいというような、身代が出来さえすればよいといったようなものではない。
真実の御用というのは仕事、仕事ということは、その事に仕えるということである お百姓しとるならば、それはね、百姓ということに仕えておるのである。例えば、仕えるということは、主人にいうなら、家来が仕えておるということでしょう。
仕事に仕える。神様の御仕事に仕えるという事である。仕事とは、それがいよいよ働きになってこなけれればいけない。働くということは、自分自身がそういう働きをなさして頂いておればです、自分の周囲がいよいよ明るくなる。自分の周囲がいよいよ楽になってくる。
はたが楽になってくるというような働き、自分一人が働いておるために、周囲が難儀になるということじゃつまらん。自分が働いておるという事によって、はたが楽になってくる。いわゆる奉仕の一日でありたい。いわゆる神様へ仕え奉るということである。なら、私共は日々神様の御用を奉仕しとるわけでございますけれどもです、なら、同じ紋付き袴つけてお結界に座っておるから、必ずしも奉仕ということではないようなことがあるかもわからん。
それがもし、私の生活のために、私が此処に座っとるとするなら、それはもう奉仕じゃない。我情我欲で座っとることになる。
只、難儀な氏子が取次ぎ助けられるための、いうなら仲立ちとして、いうなら、神の前のおかげと、神様のお心を取次がせて頂くことのために、私が此処に座っておることになれば、それは奉仕ということになる。
お商売させて頂いとってもです、只、儲かりさえすればよいという商売じゃつまらん。品物をお取次させて頂くのだ、お客さん本位、只、お客さんが喜んで下さることのために奉仕しておるのだ。
私共は人が助かりさえすればよいというのが、その一念が奉仕の内容でなからねばならんと思う。
商売人がです、只々、お客さんに喜んで頂きさえすればよいという、それは損せんならんという意味じゃないですよ。お客さんに喜んでさえもらえばよいという内容のお商売でなからなければならない。
お商売に限ったことじゃない。その仕事のすべてがそうである。御用のすべてがそうである。そういう働きを日々させて頂きながら、いわゆるお詫び、御礼の道とはそれからなんだ。
皆さん、いっちょそこから、天地の親神様の願い、只、神願御成就のためにです、どうぞ今、五つの願いの四つを申してまいりました。そのために健康も下さい。そのために家庭の円満も下され、子孫繁昌も家繁昌もそのために下されという頂きたいとい願いが願いの道なんです。
そりゃ、頭が痛いけんようなりますごと、腹がせきよりますけんどうぞ、願ってならんじゃない。それは願うておかげ頂かんならんけども、私は願いの道とはね、神の願いを願いとして、受け立たしてもらう願い、そういう道なんです。金光様の道はと私は思う。
そういう信心をです、私は真心の道とここでは教えておられた思うです。真心の道を真心の道といわゆるそれを私は実意の道だと。お道で真心の道とは実意の道と。
だから実意にならせて頂くところからです、今日私が申しました、例えも又五つの願いの事もです、実意の中に入ってくるわけです。
それを迷わず失わずに、末の末までも教え伝えよと、そういう事を知っておりますという事だけではいかん。それはいうなら、川端柳と同じことで、水の流れを見て暮らしておるだけではつまらんです。
なら、合楽で例えば、金光様の御信心、いうならば、それを合楽が受けてその真の道を現しておるとするならば、そこに大きな流れというものをです、皆さんが見たり聞いたりしておるのですから、合楽で受けておる実体というか、実【】というものを皆さんが見ておる。だからそれを見ておるだけでなくて、その中にはいらなければならん。その中に合流さしてもらうことにならなければ、本当のおかげにはなってこないと思うですよね。
どうぞ。