御理解第二十六節 「信心に連れは要らぬ。ひとり信心せよ。信心に連れが要れば死ぬるにも連れが要ろうが。皆逃げて居るぞ。日に日に生きるが信心なり。」
信心に連れは要らぬ、連れがあるからお参りが出来ておるという事も沢山あります 連れが無かったら、とてもようここ迄信心を進める事は出来なかったと思う。
連れのおかげで今日迄信心が続いておるという人もあります。いわゆる信心友達、言うなら、それこそ肩を叩き合い、励まし合い、人間ですからなかなか調子が出る時もありゃ調子が出ない時もある。
ですから、調子がどうも今頃落ちてるという時に連れの人が、それこそ肩を叩いてくれて「さあ!!」と言うて力を入れてくれると、その連れのおかげでよんどころなしに信心が出来た、又調子をとり戻すとい事もある。
そうしてだんだんお互いの信心をいわゆる研磨して信心をいよいよ本当なものに磨きあげていく、いわゆる磨きあげていかなけれはならないぞという事。
そこから独信心せよとおっしゃる独信心が出来てくる。言うなら最近言われる根性を持てと、信心の根性を持て、しかもその根性にです、磨きをかけていけと、この二十六節はそんなふうに頂いていきたい。
自分の都合のよい時とか、又自分だけを中心にして考えて信心をする、それではねどうしても独信心せよとおっしゃる独信心が出来ん。
今日私御神前で水車小屋を頂いた、歌の文句にも「山奥でひとり米つくあの水車、誰を待つやらクルクルと」というような文句の歌があります。いわゆる、ひとりクルクル回っておる、そういうような事を頂いて、今日この二十六節を頂かせて頂いた訳なんです。だからそれとこれとが、この二十六節ではどのような、かかわり合いがあるものだろうかと、まあ考え考えそのかかわり合いを聞いて頂く訳なんです。
そしたら、はからずも、この独信心をせよと、それこそ、水車のように、ひとりクルクルと、辛抱強う回るというのである。そこでね、なる程、根性が要ります、根性をやはり研いていく、研磨していく、何でも同じですねぇ、やはり、根性がなければ駄目、しかし、その根性というものもね、只根性だけではね、「あん奴は、根性が悪い」という事になったら大変ですから、その根性がね、やはり、研磨されていかにゃいかん、それが研きそがれる、もう、研ききっていかれる、そこにはね、もう根性ではない、何にもないという程しの素晴らしい事になる。
いわゆる水車ではないですけれども、回らんならんというような、頑張りもない、きばるところがひとつもない、只、クルクルと回っておる、只、有難いのである。
もう、自分の周囲の全てが有難いのである。恵まれ続ける有難さ、その有難さが、言わば一切のものを、有難い有難いと昇華していき、そこから、水車の働きがね、小麦粉にしたり、籾をはいたりする働きになってくるように、いわゆる本当のままになるおかげの原動力というのがそこから頂けてくる。
私は、本当の意味に於いての独信心というのは、そういうものだと思う、それを、私共はそこを目ざす訳ですけれども、その為には、独信心せよという少しきばった、もう、夕べ遅かったから、今日は少し、朝の御祈念を遅れたって、神様も眠い事は、御承知だから、なんていうようなものでは駄目。朝の御祈念にお参りすると決めたらそれこそ、決めたら決めたで、ちゃんとそこが、やってのけられるような根性が欲しいですねぇ、すぐ、楽な方へ妥協する、それは、いわゆる根性のある生き方、信心とは思われません。只、苦しまぎれに参りよるとでもいけないと思います。
その辺のところのね、根性が、まず養われ、しかもそれが、研きぬかれていく程しの、いわゆる研磨していく、おかげを頂いていきたい。
昨日、伊万里の竹内先生が参ってみえられました。何の話からだったでしょうか、こういう事を言われる。五代目菊五郎という名人がおった、歌舞伎役者で、その方の亡くなる時の話なのです。もう、医者が時間の問題だと、こう言った、それで枕元におられた奥さんが、さめざめと泣かれる、それをもう、自分は息が切れそうにある中から、奥さんに注意をされた。「お前がさめざめと泣くのはいいけれども、その姿が悪い、姿勢が悪い」と素晴らしいですねぇ、根性ですよ、もう、それは、怒るにしても、泣くにしても、笑うにしてもまず形を整える、形を美しゅうするのを役者はいつも心がけとるのですからねぇ、手をいっちょ振り上げるでも所作がちゃんと作ってある。もう、御主人が亡くなるというので、さめざめと泣いておる奥さんを見てから、それは、今生の別れですから、泣くのはいいけれど、泣く姿勢が悪いと言うて注意したという話を聞かせて頂いて、根性だなあと私は思いました。
死ぬ間際迄、舞台に立ってからの姿というものを、研磨しておる、いつも、その事に取り組んでおるという事。
私もそれと同じような記事を一昨日、東京から歌舞伎の本が送って来ましたから、読ませて頂いとりましたら、それによく似たのが書いてあった。
今の雁治郎の事です、皆さんも御承知の通り、息子さんは、扇雀、その子供ですから孫です、お孫さんがね、おじいさんの似顔絵を書いた、それを持って来た。
ところがね、その似顔絵を見てから、雁治郎さんが言うた事「おじいちゃんは、こんな、醜男じゃない、もっと男前だ」と言うた。普通のそれはね、孫がおじいちゃんを書いたというたら、それは漫画のようだってもですよ、これは、よう出来たよと言うでしょう。もう、それこそ、二枚目いわゆる、男前を以て売っておる雁治郎ですから、「おじいちゃんは、こんな醜男じゃない、もう一度書きなおせ」と言うたという記事が出ておりました。根性です、それに徹しておる、どんなに、もう六十になっても七十になっても、まだそれこそ、つやつやした姿を舞台に作っていこうという事にいつも心がけておるのですから、孫からでも、そんな年寄りに見られたんじゃ出来んという根性でしょうねぇ。
信心させて頂いておる者がです、信心させて頂く者の姿というものが、どうならねばならないのか、というその姿をね、少しは違ったものにしなくてはならない。
話を聞いて助かるおっしゃる程しの話を聞かせて頂くのに、開襟シャツども着てから、それじゃったら、講談聞きでも、浪花節聞きでも同じ事、そういう意味で、私は合楽でも椛目時代からの方達は、根性が違うと思うのです。見てご覧なさい、ちゃんと夏でも、炎天下の午後一時の御祈念の時でも、ちゃんと背広を着てあるでしょうがこれは、昔の御信者さん方は皆、そうです。他所あたりに、お説教なんか聞きに行きますと、皆んな、足を楽に々膝を崩して下さいと言われるけれども、合楽の方達は、絶対崩さないでしょうが。
私は、やっぱり根性だと思います。いわゆる信心の無い者と、有る者の違いという事も言えますけれども、合楽で御信心を頂いておる、その権威にかけても、姿勢を崩しちゃならんという事はね、形の事じゃないですよ、心の姿勢です、どことはなしにやはり、毅然としたものが、研き上げられてこなければいけないという事。
やる時は、ジャ-々やってから、もう、ほんならスパッと止めてしまう。根性がない証拠です。お互い根性を、もっと々研いていかねばなりません。研いていかねば有難いものになってこないです。
根性に研きがかけられる、その研きがかけられていくうちにです、その根性が研きに研かれて、無くなっていくという事はね、根性が有難いもので、研きすられていくそこにあるものは有難いというだけ。
山の水車小屋の水車じゃないですけれども、いわゆるクルクルと、誰を待つのかわからんけれども、昼もなければ夜もない、只、クルクルと回っていきよるという事はです、人がままになる事の為の働きが一生懸命に、もう当たり前の事として、普断の事として、出来ていきよる。
私は信心の目指しは、そこだと、こう思う。言うなら、そうして回っておる水車もひとたびそんなら、お恵みの水というものが、切れたら、止めなければいけない。問題は、おかげを頂かなければ、回れないという事。私共が信心によって、自分の根性がね、研かれ、いわゆる独信心せよという事は、そういう私は、最高の境地といったものを、教えておられると思う。
勿論この手前のところにあります、「お参りしょうか」「いいえ今日は、御無礼しょう」「そんなら私も参るまい」というような手前のところに、あるところのそういう時にです、信心の連れは要らんと言われるから、あの人は参らんでも私は参ろうというような、いわゆる根性、そういうところもありましょう。
けれども、本当の意味に於いての、信心せよとおっしゃるのは、丁度、水車がお恵みの水を、適当に受けながら回っておる水車のような信心だと私は思う。しかも、その働きは、精白をしておったり、麦粉にしておったり、とい働きをしておる。
私共お取次をさせて頂く者は、お取次させて頂く者としての根性もありましょう。 皆さんは、合楽に御神縁頂いておる、合楽精神というようなものでも、自分の根性の中に頂いていかなければならない。暑いからと言うて開襟シャツじゃでけん、膝が痛いからと言うて崩しちゃ出来ん、まあそう言うた訳ではないけれども、そういうものがいつの間にか、合楽の根性になっておる訳なんです。
これは、素晴らしい事だから、今の若い方達にでもです、そこのところを私は本当に、合楽の根性として、いつ迄も、持ち続けていって頂きたいと私は思います。
役員は役員、総代は総代としての根性。先日も私、総代会で、本当に皆さんに頼むようにして申しました。あなた方はね、現合楽教会の総代さんですよ、その事をしっかり自覚して下さいよと。最近は、もう合楽々と言やです、もう言わば、全国知らん者はない位に合楽という事が注目されとる、良しにつけ、悪しきにつけ、やはり、それは、良い事にも悪い事にも枝葉がついて、素晴らしいなら、より素晴らしゅう、いけないてなら、よりいけなく、そういう言うなら、皆んなの注目の中にある私共、これから売り出していかねばならんという教会の、現にあなた方は総代なんですよ。
その自覚に立ってです、総代さんとしての根性を出して頂きたい。そして、総代に習えと、一同の者がついて来れるだけの信心を、ひとつ確立して頂きたい、というていろいろな角度から、お話させて頂いた事でございます。
総代が、普通の平信者と同じであってよかろうはずがない、総代の御用にお取立を頂いて、しかも、合楽教会のあんた方は総代ですよという訳なのである。根性が要る 今日私は、独信心せよという事に、いわゆる高度な独信心せよという事がそれ程、高度なものであるという事を、今日初めて知った。私が頂くいわゆる水車からヒントを得てです、もうそこには、なあにも力みがない、有難い有難いというお恵みを受けながら、それは、昼もなければ夜もなく回り続けておる、しかも、その回り続けておるという、その働きがです、沢山な人達がままになっていく、いわゆる元を作っていきよるという事です。何気ない、毎日々の有難い勿体ないのお参りがです、沢山な人が、元気が出るような働きとか,おかげよなっておるという事なんです。そういうおかげにつながっているか否かという事なんです。私共の信心が・・・・。
又、そういう信心を目指しておるかという事なんです。
最後に日に々生きるが信心なりと結んであります。日に々生きるその事が信心なのだ。その日に日に、只、それこそ、べんべんとして、生きておるという事じゃない。 だら-っと息をしよるという事じゃない。日に日に生きるその事自体が信心なのだという事。ですから、私共が、手につけ、足につけさせて頂いておる御用がです、果して、信心になっておるかという事なんです、日に日に生きるという事が信心なんです。もっと、それを難しゅう言うならば、いよいよ自分という者を空しゅうして、クルクルと、水車のように、回っておるかという事。沢山の人がそれこそ、人が助かる事さえ出来れば、とこれが取次者の精神であるならばです、本当に、難儀な氏子の取次ぎ助けられる事の為にです、その事に生き甲斐をもっての、お取次の御用が出来ておるかという事になりましょう。
日に日に生きるが信心なり、そこには、自分の我情があってよかろうはずがない、我欲があってよかろうはずがない。自分を空しゅうしてのお取次であり、そこに、人が助かるという事につながっておる、いや、助かる事さえ出来ればそんなら、修行はいとわんというような、取次者精神がですねぇ、いよいよ出来て行かねばならん訳です それがそんなら、御信者さんと同じような、信心どもしよって、修行どもしょってよかろうはずがない、そんなら、これは、御信者さんの側から言うても同じ事。日に日に生きる、例えば御用なら御用の中にです、例えば商売で言うなら、これをこうすればいくら儲かるけんといったような根性は捨ててです、儲かるとか儲からんという事はもう別問題、只、お客さんが喜こんで下さればという、お客さん本意のお商売が出来ておるかどうか。そこには自分という者を空しゅうして、いわゆる利益というものをです、もう眼中じゃない。と言うて、損せよという意味じゃないですよ。そこに本当の御用として出来ておるかという事なんです。ですから、日に日に生きるという事は、もう日に日に死んでいくという事も言える訳です。自分という者を、日にひに空しゅうしていくのですから、そこから、新たな私が生まれておる。それが日に日に生きるのである。
只、今日私が昨日の続きというだけじゃない、過去の自分という者が、無くなっていく程しのもの、そして、もう今日はです、新たな自分がそこに生まれておる、誕生しておるというような生き方、私はそういう生き方こそ、日に日に生きるが信心なりというのはそういう事だと思う。
信心しとらん者でも、やっぱり毎日生きておる、それが信心かというとそうじゃない。日に日に生きる事が信心だとしての、生き方なのです。それには、とても々大変な根性がいる事がわかります。商売人に賭けは眼中に置くなとこれは大変に難しい事だと思います。お客さんが喜んで下さればいいという生き方、そこには、神様が恵みに恵み続けておって下さる。それは流れてくる谷川の水のようなものなんです。それがそう力まずして、それが出来ていく、いわゆるクルクルと回る、水車のような働きになってくるのではなかろうか。
私は今日、第二十六節から、根性を、信心の根性という事を言われるが只、根性だけじゃ駄目だ、意地が悪うなるような根性じゃ駄目だ。頑張りがきくというだけじゃいけんのだ。その根性がね、いわゆる研磨されていかなければならない、研くというだけじゃいかんですよ、磨していかなければならない、自分という者を・・・・・日に日に生きるが信心なのだから。
日に日に生きるという事は、今日、私が誕生したのだから、過去の私は、もう無くなっておるのだという事、それが研磨していかなければね、そういう私は、生まれてこない。それこそ、菊五郎の話じゃないですけれども、もう死際までです、自分の言わば仕事、もうそれこそ、素晴らしい、生きた遺言だと思いますね、その根性そのものが、言わば後に残る者、又は、あと継ぐ者の手本になるような、いわゆる根性がそこにある。信心させて頂く者が、そこのところをですねぇ、うちのおばあちゃんは、偉かった、うちのおじいちゃんは、もう、確かな人であったと、遺言しなくてもですよ、こうあってくれと言わんでも、生きたものを、そこに残していけれる程しの、私は根性をね、作っていかなければいけません。
勿論、これでよいという事はありません、合楽の言うなら合楽精神というものがです、最近少し薄らいだような気がする、昔の人の信心は、素晴らしいというのじゃないですけれども、合楽には合楽のひとつの美風と言うか、そういうよいものが、まだ残っておる、それは、やはり、根性で鍛えてきたのである。
もう、それは、当たり前の事として、そんなら、前に並んでおられる、幹部、総代の方達は、もう当たり前の事として、夏でも、御参拝させててもらうならばちゃんとネクタイは結んでくる、上着は着てくると言うのが、言うなら、根性です合楽の・・ そういうのもは、いよいよ大事にしていかねばならないと思います。同時に、連れがあっちゃならんというのじゃない。連れがあるから、ようやく、お参りが出来ておるという人もあれば、連れがある事によってです、それこそ、励まし合い、肩を叩き合って、信心を又、一段進めていくという意味に於いては連れは大事。
けれども、独信心せよという事はです、それこそ降ろうが、照ろうが、こうと決めたらそれを断行していくという程しの、根性の事を、今日ここではね、独信心せよと教えておられるという事を聞いて頂きましたね。
どうぞひとつ、根性を作るというのじゃなく、根性をいよいよ研いていかなければなてらない。しかも、その根性がなくなる程しのところ迄、研ききっていかなければいけん。そこから、今日、私がお知らせ頂いた水車のような働きが、頂けてくる。
限りない、その為には、何と言うても、限りなく、お恵みを受け頂き続けなければ出来る事ではない。
どうぞ。