御理解第九十九節 「無学で人が助けられぬと言う事はない学問はあっても真が無ければ人は助からぬ学者が身を食うという事がある学問があっても難儀をして居る者がある此方は無学でも皆おかげを受ておる」
この九十九節を頂いておりますと、学問は無くても真があれば助かると、学問はあっても、真が無ければ人は助からぬと、ですから同じですねぇ、学問がてをっても、学問が無かっても真があれば助かるのです。
ところがその学問がありますとね、学問の方に力を置いて、真の方に心が薄うなる そこでかえって純粋と言おうか、純真な心といったようなものを失うのです。
そこにおかげが頂きにくいという事になる訳です。今日私、この九十九節を頂くに当たって、神様にお願いさせて頂きましたらねぇ『心で信心する』という事を頂くそして、次に『信の心』という事を頂くのです。そういうようなところから、この九十九節を頂きたいと思うのです。ですから、このところはもういよいよ何と申しますか教祖様いわゆる金光大神が、どういうような心の方であったか、又、その心をどのような事柄でいよいよ高度な心になっておいでられたかという事をです、わからせて頂くと、そこに真というものがだんだん出てくと思う。
教祖様のいわゆる生きられ方、信心のお進められになられた具合といったようなものを、やはり、私共が学ばせてもらうという事、そこに例えば、心が清められる、又改められる、又は信心の心とこうおっしゃいますから、いよいよ神様を信じて疑わない心というようなものが出来ていくひとつの過程、それをひとつ知らなければならないなと、今日私は思わせて頂きます。
そこでそのお互いの信心の初心の頃から、今日、こうして一年の人もありゃあ、十年の人もありましょうが、自分の心というものが、どういうふうな、歩みを続けておるか、どういうふうに向上していきつつあるかと、例えば、限りなく美しくなろうというふうに、ここでは申します。そんなら、限りなくどのようなふうに美しゅうなっていきよるか。自分ながら、自分で驚く程に有難い事になってきたもんだなあと、本当に信心の無かった時代の私であったら、それはもう心配で心配で夜も眠られんごとあったろうが、お取次を頂いてお願いをさせて頂いたら、全然心配どころか、その事が有難い事になってきたとか、以前の私であったらこんな場合、どう思うたであろうかと、それを思うてみる。言うなら以前の私ならそれこそ、こういう事があったら、腹が立って腹が立って夜でも眠れん位に腹が立ったであろう、現在の私はどういう事かと言うと、そんなだんじゃない、その事がかえって私が、有難くならせて頂いておるといったようにです、自分でやはり思うてみなければいけません。
どうでしょうか、皆さん、そういうように、心が限りなく美しゅうなる事に、心が進められておるだろうか、進んでおるだろうか、すわっていっておるだろうか。
同時に、それに合わせて信心の心ですねぇ、いわゆる信ずる心という事でしょうねぇ、何十年信心しておってもですねぇ、ひとっつも変わらないという人があるのですよ。なる程、美しい人があります。美しい心の人があります。けれどもその美しい心ですけれども、それがひとっつも進んでいない、向上していない、もう自分は美しい心だと自分の心の中には汚い、やましいといったような心はないというふうに思っているんでしょうか、まあこの位の事は、人間だから当たり前と思ってるのでしょうか 全然心が進んで行かない人があります。それではね、いつ迄経っても本当の真というものは出てこないと思うんです。
真という事をいろいろ言われているのですけれども、結局私は真というのは、その時その時の時点に於いてです、やはり本当言うなら、自分で自分の心を拝みたいような心から生まれてくる心だと思うのです。だから、どれが真で、どれが真でないという事はない。生まれつき美しい人が、いつ迄経っても、心が進まないのであるとするとね、それは真じゃないのです。どんなに自分が浅ましいというか、自分ながら根性が悪いと思う、例えば人でもですよ、自分のような浅ましい人間はおらんという事がわかるとですねぇ、そこに信心というか、又は良心というか、その良心が天地に通ずるといったような心がふと起こってきたり、使われたりする時の心が、私は真だと思うのです。ですから、私は信心は、巧者の人であっても、今、はじめたという人でもやっぱり同じおかげを受けられるという事です。
はじめて参った人が、「ああ、そうだったのか」とか、お話を聞きゃぁ、人が悪かったんではない、自分が悪かったんだなとか,それを感じます。そこから、いわゆる改められる、そこから行じられるというか、それが真なんです。だから、おかげを受けるのです。だから、それがですよ、五年たっても十年たっても同じ事であったら、もうそれは真ではない。信心はもう限りなく、言うならば美しゅうなると、限りなく美しゅうなっていきよらなければ駄目だと、しかもそれが、有難い事に変わっていくという事。
蜘蛛の糸というお釈迦様とかん蛇羅のお話に出て参ります、かん蛇羅の心というものはです、それこそ世の悪という悪を身につけたような男であったと、もうありとあらゆる悪を持った人間であったけれどもです、ある時山越えをする時にです、道に出て参りました蜘蛛を踏みつぶそうとした時に、ふっと自分の心の中に、いわゆる仏心が起こった、可哀相だと、ちょっと思うて踏みつぶすのを踏みつぶさんで進んだ。
それを、仏様は見ておいでであって、たったその事だけて、かん蛇羅が血の池地獄で浮き沈みしておる難儀な様子をご覧になって、助けて下さろうとした訳なんです。 ですから、もう助けられる心というか、又はここでは人は助からんとおっしゃるが助けられるも助けるもです、やはりそこに真というものが出て来なければならん。
私共は、いわゆる助けられる訳なんですねぇ、又は自分の助かっておる姿というか信心をもって、又人が助かる。お釈迦様が、蜘蛛の糸をおろしになると、言わば血の池地獄に苦しみぬいておる、その沢山の亡者の中のかん蛇羅の前に銀のような糸が下がってきた、その糸にすがって、これで助かるぞというて一生懸命登りはじめた。
だから、もう、そのままでいきゃぁ助かったんです、ところがちょっと下を見たところが、それこそ、沢山の亡者達が、その銀の糸にすがって、登って来ている訳です これは、これだけ沢山の者が登って来よったら、この糸が切れる。折角自分が助かろうとしているのに、この糸が切れたら大変だと思うて、下を向いて、「この糸は、誰の糸と思うか、この糸は俺の糸だぞ、お前達は皆んな降りろ降りろ」と、その大声をした途端に切れたという訳なんです。又元の血の池地獄に、はまってしもうたという物語なんですよねぇ、あれは・・・・・
もう、私共が折角、限りなく美しゅうならせて頂こうと一生懸命つとめる、その限りなく美しゅうならせて頂く心から、言うなら真の心が生まれ、いわゆる言うなら、親切とでも申しましょうか、美しい心が様々な形で表されて、その事が神様の認められるところとなって、おかげを頂いていこうとするきっかけが見えてくる。
きざしが・・・・。それが又、元のところに立ち戻ってしまわなければならないというようなものが私共である。そこを教祖様は、おかげは和賀心にありとおっしゃった。おかげを頂くのも和賀心なら、おかげを落としていくのも又、我が心なのです。 それで、私共、信心させて頂く真の心というものは、もう丁度、川の流れのようなもの、もう流れておるか流れていないかわからないけれども、やはり、流れに流れておるという、もういつも、向上一途というか、鋭く自分という者を、見つめたり見極めるというところからです、言うならば、こんな事じゃいけん、いけん、いけんと、こんな事でおかげの頂けるはずはないと、そういう思いを,いつも、自分の心の中に持っておらなければならないという事。
なかなか、それでもね、かわりばえがしない、自分を歯がゆく思う事があります。 けれども、そういう思いを、思い続ける、持ち続けるという事が信心。だから、十年経ち、二十年経ちしていくうちにです、そういう思いが、いつの間にか、さき程申します以前の私であったらという事になってくるのです。ところがです、言うなら、学問がかえって身を食う事があるとここにおっしゃっておられますように、それこそ心で信心するという事は、心でおかげを受けるという訳でしょうが、いろんな勉強をしておりますとね、それがわかりすぎる位にわかってくる。
昨日もある信者さんがある会合で、大変お話上手の先生のお話を聞いてみえられた もう、恐れ入ってしまう位に上手なんです。二時間余りの長いお話を、それこそ、飽かせずに聞かせなさるだけではない。その内容が素晴らしい。どうして、ああいう表現をもって、言うなら合楽で、深い々意味のお話を私共が頂き続けておる、それをものの見事に学問で説明をしておられると、まあ言うなら、いろんな心理学とか哲学とか申しますねぇ、その哲学であり、心理学であるものをです、本当に勉強しておらなければ、ああいうお話は出来まいとこういう。
ところが、そんなら先生、そういうものがわかって、人に話してあげられるだけのものを持っておって、御自身の教会では、人があまり助かってないという事実をね、思う時に、なる程、心で信心するという事になってくる、言わば、そこから生まれてくる信の心、信ずる心。人間が心を美しゅうしていけば、限りなく美しゅうなる事に焦点を置いて、信心していきゃ言うなら、どんなおかげでも受けられるという事が学問的にわかる。それこそ、神は、信ずる者を信ずるとおおせられるように、そこから神様を信する力というか、信じてやまないその心、その信ずる心がおかげを左右するのだ、おかげを受ける受物になるのだという事をです、まあ、学問的に充分説明して下さる、これは、やはり、勉強しとかにゃ出来る事じゃない。
けれども、そんならそれを伝えておる先生自身はです、限りなく美しゅうなっていくというような事には、精進しておられないところにですねぇ、やっぱおかげを受けられん。私共は、一生懸命折角信心させて頂きますから、ある人は、信心を足でするものだというふうに言われる方があります。足でするという事は、一生懸命お参りするといういう事でしょう、確かにこれは必要ですよ。
だから、そういう意味で、心でた信心するというのは、そういう意味ではないのです。この心で信心するという中にはです、言うなら足で信心をする、頭で信心をする又は物とか金銭をもって神様へ向かうというような全てがね、実は信心する事の中に入っておらなければ駄目だという事です。
これが例えば、頭で信心するというだけで、心で信心するというのが伴うていなかったらです、どなにわかっておっても、その事が巧者になってもです、私は、自分も助からん、勿論人も助からないと思う。
心で信心するという事はですねぇ、どういう事かというとね、これも今日私頂いたんですが、『潤』という字を頂くのです。
例えば私共のね、言うならば、限りなく美しゅうならせて頂こうというような心でそれに清められた上にも清められ、限りなく美しゅうならせて頂こうと本気で思う心というものはねぇ、もうどれだけ広い範囲に、その心というものは、潤うていくかわからないのです、潤うという事は、助かる事につながる訳ですよねぇ。
例えば、家の中で、一人本当に心の美しい人がおりますと、家の中が潤いましょうが、本当に美しい心の人が、例えば、会場にお話があっておる時に自分の私利とか、私欲とかいうものは離して、本当に美しい心でお話を致しますとねぇ、その会場が潤うてくるのです。
只、自分の主義主張だけを、どんなに素晴らしい表現なり、又、正義の心をもってです、それを説いてもです、美しい心がないとそれはいわゆる、対立したり、言わば討論になったりする訳です。けれどもね、本当に美しい、例えば心というか、神心とでも申しましょうか、そういう心で申しますと、そこの場が潤うとくる、そういう意味なんです、しかも、それは、私共は眼に見えないところにまで、潤うていくのですそういう心というのは・・・・。
先日の合楽会の時にも、私申しました事ですけれども、例えば皆さんが、五人でも十人でも、本当に真の信心が、わからして頂いたらです、村全体が潤うてくる、言うならば、合楽に金光様がお祀りされなさった、ここに遷座なされた、ここに教会が出来た。そこで、合楽、まず地元であるところの合楽全体がです、潤う程しのおかげを頂かれなければいけん、それはね、私共が金光様の信心ちゃこげん有難いというだけではなくて、自分自身の心がね、有難い、それで潤うておらなければ出来ん。
なる程、おかげは和賀心にあるんだと、もう自分自身の心ひとつだと、そこから私は様々な、これはもう限りがない程に、おかげの形というものは変わっても、おかげの道というものがついて来るというか、進展してくる事を思います。
これは、不思議に今日頂きます信の心、信ずるという事でもです、神様の御教えを頂いて、しかもその御教えを、私共は行ずる事によって、改まる事、限りなく美しゅうならせて頂く事、清まらせて頂く事がなされて参りますところから、信ずる心というのは出来てくるのです、話を聞いたから、信じれるという事では決してない。
この方は無学でも皆おかげを受けておる、此方というのは、教祖生神金光大神の事でしょう。此方は無学でも人が助かっておる、だから、此方生神金光大神の生きられ方、在り方というものがです、まず私共はわからせて頂かなければならん。
どのような過程をたどられて、どのようなふうに、言わば一言にしてです、おかげは和賀心にあるんだと、言い切れなさる程しの事がね、信の心をもって、伝えて下さっておったかという事がねわかるのです。御自身がとにかく、生まれつき素直なお方であったと、神信心が好きでおありになったといったようなのですから、それがそのままであったのでは決してない、それがず-っと、やはり、天地金乃神と同根というところ迄、お進みになられたという事は、只、修行されたからという事だけじゃない心がその修行に伴うてです、限りない進展をとげておられる。言うなら、限りなく美しくなられておられる。限りなく、自分で自分の心が拝める程しの心というものがです、教祖の心の中にだんだんはっきりしてきた。
例えば、どのような事に直面してもです有難いなあと、どのような場合に直面されましても有難いというてお礼を申し上げる心が育ってきた。
例えば、二人のお子さまが、疱瘡にかかられた、さあ、まだ御信心一途といった時ではない、只、御信心好きというだけであったけれども・・・・ですから、医者にもかかられた。何々様にも頼まれた、拝まれた、一生懸命おすがりをなさったけれどもあえなく一人のお子さまは亡くなられた、けれども、一人のお子さんの方は助かった そういう時の思いわけというか、それが素晴らしい、これ程信心したのに、とうとう助からじゃった等とは思っちゃござらん、本当に助からなかったのは、自分の信心の不行き届きであるとしておられるにもかかわらず、一人を助けて頂いて有難いというて、わざ々神主さんを呼んで、お礼のお祭り迄なさっておられる。
そういうような例えば心がです、次のいわゆる御神格がずっと上がっておられる。 生神金光大神迄に進んでおいでられる。その心の基礎というか土台がそういう心であり、その心が、あらゆる事に直面されるに従って、それが磨かれたり、改められたりしてきたところにです、おかげは和賀心にありと、これは勿論おかげは自分自身の心にあるのだぞという意味もありゃぁ、おかげはいわゆる和賀心、和らぎ賀ぶ心にあるんだぞという事も、含まれておりましょう。
そして、こういう生き方、私共がもう限りなく、自分の心を高めていこう、美しゅうしていこうという心さえあればです、おかげが受けられると信の心が生まれたという事じゃないでしょうか。
それがどうでしょう、私共がね、よくない事を考えたり、ずるい事を考えたり致しましたら、この信心の心というものは、もういっぺんに又、それこそ、かん蛇羅が又血の池地獄に戻ったようにです、崩れていく事でございましょう。だから、もう、信心とは、もう絶えず限りなく、山坂を登っていくようなもの、限りなく自分の心が美しゅうならせて頂く、もうこれでよいという事はないという事。
もうどんなに信心を高めさせて頂いてもです、それでよいという事は決してないのにです、自分の心というものはひとっつも見極めようとせず、限りなく美しゅうなっていこうとはひとつもせず、只、おかげおかげとおかげを追うておったり、又は人の在り方、人の足元ばかりが見えてくるといったような事では、自分の心にいわゆる取り組んでおるとは思われません。いわゆる心で信心するという事ではないと思うのです。心で信心する、信の心、又、潤うというような事を今日はヒントに頂いて九十九節を聞いて頂きました。どうぞひとつ、その潤う潤い方というものがね、はたして、自分一人の心が限りなく高められていく事を、願いとしておるかどうか、又は信の心というものがです、どの程度に信じておるか、ここ迄は信じておるけれども、ここのところは信じきらないといったような事をですね、いよいよ確信じてね、神様の働きを信じて疑わない信心をいよいよ堅固なものにしていかねばならんと思うのです。
どうぞ。