昭和四十年 ?月 ?日 御理解
どくだみという草があります。あれには、かわいい白いかわいい花が咲きます。あれはついとりましても、大変臭い草ですけれどもあれを陰干しにいたいしますと何の薬にでもなるという様な薬にもなります。いわばどくだみの様な臭い草でも白いかわいい花を咲かせる。それに陰干しにすれば薬になる。私はお道の信心は、そういう様なふうな心の状態でおかげを頂いていくのだと思う。この状態にならして頂くという事が実は、和賀心であり神様をいよいよ信じる稽古をしていかなければ出来る事ではないのです。ある時教祖の神様、夏の事だったんですねえ。お袴をはかずにこのおられる時代があったんですねえ。御結界にお付きになってお参りをしてくる氏子に懇々として御理解をおときになる。ところがです。ちょうどその時に一匹のむかでがでてきたんですねえ。そしてこう大変こえておられたらしいでございますねえ。ですからお座りになっているところがはだけておった。そこにむかでが這い上がって、御理解を頂いておる方がひやひやしておる。それでども知らん顔してその御理解をずっと続けられたという事なんです。そしたらすうっとそのむかでが上がってくるんですねえ。背にあたりから逃げていったというお話がございます。どうでしょうかねえ。ところが入った時にムズムズするから叩いたりする所にさされなければならない所があるねえ。同じ事でもこういうような状態でおかげを頂いていけばです。本当に有難いおかげになってくるんですねえ。昨日【】まさの御祈念の後でした。久留米の、【】さんが朝参りしておられます。というてお届けされますのに先日から長女のゆうこさんというですかねえ。今年から中学校にまいります。なかなか素直ないい子ですが。毎日久留米からお参りをして来るんですねえ。御理解を頂いてから帰ってそれをまあご飯の時なんかお父さんやお母さんに話す。いわば歓心な子なんです。ところがです。昨日でしたかおとといでしたか。中学校の入学式にやらして頂いた。そして帰って来てからゆうこさんがお母さんに言うことなんです。けども今日は、お母さんがっかりしたと。何ぞがっかりしたかと。もう毎日私椛目にお参りさせて頂いてからもう心の中で一生懸命お願いしてきた。それは、どうぞ自分達の好きなグル-プが同じクラスになる様にというて願った。先生もどうぞあの先生が担当して下さる様にと願った。ところがその先生も他に行かれた。グル-プもバラバラで、全然知らない者の中に入ったとこういうのですねえ。そこですぐお母さんは考えたんです。それが神様のご都合だろうと。それがちゃんとおかげになってくるんだとこう言おうとしたけれどもまあ待て待てと思ってですねえ。金光様金光様と子供がせっかく椛目にお参りさせて頂いて願う事が成就しなかったというてがっかりして帰って来ております。けども本当の事がわかりませんから。よございますけれども、どうぞ心の上にお繰り合わせを下さいというて願うといて本当にお母さんの祈りが足りなかったという顔をしとった。そしたら10分くらいしてからゆうこさんの言うた言葉がねえ。お母さんねえ本当いうたらこれがおかげじゃあねと言うた。自分の思う事だけがおかげじゃないと神様は、一番良い道を開いて下さるのだからこれがおかげじゃあね。私はそう思うたけれどもねえ。お母さんがどげん言うじゃろうかというてお母さんがそれが御都合じゃ。おかげじゃと言うたら私が必ず抵抗しておっただろう。ところがいくらか願いがあったのですねえ。願いが成就しないのですから。けどもお母さんがすまなかったという顔をするからです。かえってお母さんを慰めてからそれがおかげだとこういうたという話を聞かせて頂きながらお道の信心は、ここの辺が大事な事じゃないかとこう思うですねえ。あれだけお願いしとるけどおかげにならなかったというて子供が帰ってきた。それをおかげだというて例えば日頃おかげ頂いている御理解をです。子供にいうて聞かせてそれがおかげである事を強調してもです。子供がおかげと感じても抵抗するでしょう。何でおかげおかげというた事になってくるでしょう。それよりも黙って祈るという事が大事でしょう。私は昨日ある御造営の事でいろいろお世話してくださる人の事をどうもあの人は、おかしいといわばこちらが騙されはせんかといった様な事をいうた人があったけれども、お願いさせてもらいよったら昨日初めに申しました様にどくだみの花にきれいな白い花が咲いておる所を頂いた。はあもうどくだみといやあ。ありゃだれでも臭いその草なのだけれどもそれにでも白い花が咲くという。それを例えば摘み取って陰干しにしておったらそれがいわば薬にでもなる様なという事なのです。これに騙された、これは臭いというてゆく所には、お道の信心のいわば生き方進め方ではないという事。そこを場合によっては、時節を待っておかげを受けたがよかろうという事にもなり馬鹿とアホでをみち開けとこの馬鹿とアホで道を開かせて頂くところにどうしてこの様な道が開けてきたかという。どうしてこのような不思議な事になってきたかというおかげになってくる。いわばそれが薬になるようなおかげになってくるのですから。お互いが日常生活にですねえ。例えば本当にびっくりする事ですねえ。むかでが、はいってくるのですから、けどもそういう時にあわてんですむ信心をしとかなきゃならん。いわゆる金光様を念じさせて頂くところにです。さされる事もなくて、いわばその出てくる様なおかげを頂かれるのです。という金光様の信心は実にいわばいうなら消極的な感じですねえ。むかでが這い登ってもこうしとかならんと【】子供達が不平不足をいう時です。不平不足をどうして不足をいうかとこういうおかげを頂いてるのにそれがおかげだと例えば整然と話して聞かれても早分かりすようであるけど、それではいかにも賢い様利口の様であるけれどもそれでは、子供はおかげを受けきらんという事ねえ。昨日おとといでしたかある人がもう家の娘ばかりは、いくらいうても言う事を聞きません。もう本当に歯がゆい事だと言うてお届けがあった。そしたらね自動車が溝の方へちょっとこう片寄って落ちている所を頂いた。親がガミガミいうのもです。子供の片一方の車の片一方ちょっと溝に落とした。それをやかましく言うのではなくてです。ちょっと引き上げてやる気持ちになったらおかげだと私申しましたらそのわかられるんですねえ。やっぱりいらいらもやもやしよならん時は難儀なんです。もう動かん時なんだ。ああそれは、落ち込んでおるたい。ちっと手伝えばすぐあがれる様な感じの車がちっと入っている所を頂くんですよ。ですからもう本当に家の娘ばかりはといわずにです。そういう時には、ちょっとかかえてあげる気持ちになるんです。そこに私は、豊かな心が必要だと。いわゆる馬鹿とアホにならして頂く稽古が必要である事。そこから私共の思いもかけない道が開けてくるんですよ。いわば薬になる様な道が開けてくる。こういう様な草がいわば草花がです。しばらく陰干しにしておったら薬になる様な道が開けてくる。草にやはり白い花を咲かせるそれをもっているとこと。そこにも私は、成り行きを大事にしてゆけ。成り行きを尊んでいけとこういうのである。そこのところを合唱して受けさせて頂くという事がです。痛いことであってもです。しるしい事であってもです。それが一応ああでもないこうでもないといわばしましてもです。結局は、そこにしかならびついてこないならばです。それを受けてゆく以外にない。せっかく受けるならばやはり有難くうけていくことが信心であるという事。夕べは、そのどくだみの花をです。いわゆるどくだみの花としてです。どくだみとしていわば薬にしきらずにはなもちならんとか臭いとかいうて排斥しておる事はないだろうか。危ないと感じたら危ない事の先にいわば<勉強>のできれる働きが頂けるのだけれどもというてそれを取り除かせるよう様としてからとちかっとされるようなおかげを頂いたのではないだろうかと。ガチャガチャ言わんでもせんでもすみような時にです。自分も暗い心の思いをせんですむおかげが頂けるのにです。どうしてこいつ動かんだろうかというて【】ようにせずにです。それはちょっとこちらがついそえて動き出す様なおかげになるのに家の娘ばかりはゆうことをきかん。自分も暗い心にならなきゃならん。娘もいらいらしなければならん。こげなばからしい話はならない。ところが信心を頂いておる者のいわば願いというものが全然ない。そういう中からです。馬鹿とアホで道を開けと簡単にいうけれどもその道がです。どうしてこのような道がという道が開けてくる。そこを頂きぬく為に今朝の御理解ではないですけれども私は、坂本繁次郎さんを頂いた。坂本と有名な画家なんです。あの方は、もう馬を書かれては、天下一品といわれている様な見事な馬を書きあげられるですねえ。、いわゆるその坂本繁次郎の繁はですねえ。繁と書くいてある。いわゆる繁盛の繁である。繁盛のおかげを頂くという事はですねえ。勿論信心して頂かなきゃならんけれども信心するというはです。やはり坂本であるという。坂というのは、修行という事である。修行が元で繁盛のおかげを頂けるという事である。繁盛のおかげが受けられるという事である。同時に坂本さんが言おうとされる所の馬のいわば絵というのがです。誰でもここじゃ馬のおしらせを卑しい心といった様に頂かれる。汚い心と浅ましい心なのだ。そういう例えば浅ましい心を自分の心の中に発見させて頂く。自分の心の中にそんな浅ましいとか卑しい心とか、ないように思うとったけれども信心の光というか少しこれに灯るようになるとです。信心の光に照らし出されるものは、自分はこういう卑しい心があったこういう汚い心があったという事である。だからそれに取り組ませて頂いてそれを繰り返し繰り返しいわば動かせて頂くところにです。ああいう例えばすばらしい馬が書き上げられるようになる。卑しい心があったおかげでそれを信心の稽古の材料になっていくという事である。それを修行になる。そういう修行が繰り返し私はなされていく様でなかれば今日私が申します様なです。馬鹿とアホにもなれない。成り行きをいわば尊ばして頂く事にもならない。いわば臭いどくだみはいわば排斥していく様な心しかない。いよいよおかげの受けられる。どうしてこのような有難い道が開けてきたであろうか。という様な道にでる事もなしに信心はしておってもそれを受けられない。どうでも一つおかげを頂かしてもろうから例えばその中に申しました井上さんのその話。私共は、えてしてそれはおかげじゃろう、おかげじゃというてそれを無理やり分からせようとする。そうですってねえ。と言いながらも心の中では抵抗を感じておる。それよりもです。やはり私の願いが足りなったといった様な態度。或る時にあれは、終戦直後。あるおばあさんが御本部にお参りをされた。ご主人が長い間患われて亡くなくなられた。亡くなられたお届けを金光様のもとに出られた。金光様ああしてお願いいたしましたけれどもとうとう何月何日に亡くなりました。というてからお届けをされました。そしたら金光様が仰ったそうです。私の願いが足りませんでしたからと仰ったそうです。私は、その時こそもうそれこそ恐縮されて金光様あいすいません。というてからいよいよ有難いものを頂いて帰られた。とい話がございます。はあやっぱり神様の何か御都合じゃろう。これからおかげ頂く。いわば励ましの言葉よりも何よりもそれを金光様のへりくだられた心のその言葉一言で有難いもを頂いて帰られたという。私は、信心において日常の中に必要じゃないかと思うんです。ここに私は臭いどくだみ的な事柄の中からです。真っ白花を見る事もできれば同時にそれが万病の薬になるような薬の元も頂けてくる。そして何ともいいしれないおかげの中におかげをおかげと感じれるような道が開けてくるとこう思うのです。おかげ頂かれました。