昭和三十・・・・それで、親先生の御許しを頂いたら今度、今大阪そのに行っとりますからその序でに、帰りに向こうの方から、それを融通してもらう事は、出来んだろうか、あの相談をして来たいから、そのお許しを親先生に頂いたら、すぐ電報を打てと言うて、大阪に発ってらっしゃった。
彼は、その事をおとどけする訳なんですね。「ア-」それは、おかげなぁと私しは思うてから、も、もうすぐ神様に、おとどけする訳なんですね。「ア-」それは、おかげなぁと私しは思うてから、も、もうすぐ神様に、おとどけさして頂いたんです。そしたら、ですね。あら、なんて頂いたね、(女の人の声)「先は長い。」ウ-ン先は、先は長いと頂いた。まあだ、そそげなこっちゃなか。まあ、そんないまガバガバ儲けようたらまぁだ出来んち、神様から言われちょったですたい。あんたんどんが今、ガバアガバアその儲かるのが、おかげんごと思うちょるそれじゃなかち。
今位いで調度、よかて「ねェ」資本はでけた。まとまった注文があった。これなら、おかげだと借りてから、又、することはでけん儲かる事だけが、目的じゃなかと本当に幸せになると言う事が目的、そうゆう様な、その言葉の中に私くしは感じたんです。
ところがここは、もう本当に、この人達御夫婦ですね。もう、本当に鶴の一声ですもんね「ハイ」してもうその妙に合わせるほどスキットしとるわけですね。
それだけは、ありがたい。そこにき、あたしは、高芝さん達が、おかげ頂きなさる、ゆえんがあると思うですね。
例えば、現在の高芝さん達からすればですね。今頃からもう、おとどけがありました。もう先生、お風呂がガクガクなってからですね。どがん、どげんしたっちゃもう、もう入る時には、半分減ってしもうとるちゅうわけですね。
だから、お風呂いっちょ買わせて頂きたいと思いますがちたら、まあだまあだち「笑われる」それからまた、暫くてから「ア-」新聞ば、いっぱいつめちから「ア-」しましたちから、私は、もうそんなら、いっちょ、おかげ頂かんねち。言うかと思うとるとですよ。高芝さんとしては、私しが、あそ、そう「笑う」それは、おかげいたく、それでよかっち。私がゆうともんだから、自分もその「ねエ」そこ辺が、ありがたいとですよ。信心とは、ねエ。
さあ例えば、うんなら現在、高芝さん達が、おかげ頂かれると言う事は、今のおかげ頂いてる状態から言うたら、風呂桶いっとょぐらい全然問題じゃないですね。
けれどもです、けれども、そこん所を、親先生のお許しを頂かなければと、それに徹底しておると言う事、そこの裏には、どうゆうようなものが、あるかと言う事ですねッ。神様が、私くしはおかげの、おかげの、の、おかげにおかげが、うむ、生まれていく様なおかげを頂かしたいばっかりの思いが、そん中にある事を知らなければ、いけません。
先日からも、いさむさん方の奥さんも「モ-」それを、ほしいままに着物を注文された後に、おとどけされた、それが私くし、もうおとどけもせんでしたから怖くなったと言うことです。
文男先生に、お願いしてあったところが、こらっしゃる度に、忘れちゃる「こら-」もう、いよいよまだ、いらんぞこういいござると、と思うたから先生、どうぞ、いつまんでん忘れなさるごたるふうに、お願いして下さいとゆう、おとどけが夕べございました。
けれども、それは、それとしてですたい「ねェ」折角頼んでおるのだから「ねェ」それは、それとして、おかげ頂いてもよかろうばってんかね。
これからは、着物一枚、ことわってゆうてから、御神意をうかがう様な作る様な事は、しなさんなと、私くしが申しましたねェ。
そこにどうゆう御神意が、あるやら分からんのです。神様は、その人に、どうゆう修行をまあだ求めてござるやら分からんのです。そこん所を徹底しぬかして頂いておかげを頂かして頂かなければなりません。
そこにはです、その甘木の親先生のひとこと御言葉一つにです。ねェ自分の心の中に、忘れられないと言うておられる。そんなら、あんたに頼まにゃよかったと言う事。どうゆう大事な御用を神様は、頼みなさるやら、分からん。
それは例えば、神様からいわば師匠から、と言う場合もございましょう。わたしどもの家内の様に無言の中に、ね。限りない神様の願いと言うものがわたしどもの家内にかけられておる。それを家内は、一生懸命御用頂いておる。そこを気付かせて頂いたら、あの無言の神様の大坪五十枝これだけは、お前でなからしか出来んから頼むと言うておられる事を、あたし、そうゆう神様の声を聞いたら、あれが、不平も言わず不足も言わず、ありがたいとして頂けていけるのでは、ないだろうか、ね。
高芝さんと久富先生の事の例をもって申しましたがですね。そうゆう調子で私しは、言う事ゆわば聞い。見ていかなきゃいけないと思うんですね。好い加減にしてはならない。